愛と引き換えに失われた永遠の命  HOME  戻る

 ヒトはなぜ死ぬのでしょうか? 誰もが一度は考える疑問、そして恐怖。生物の目的は生きることであるはずなのに、なぜ?
 生命の歴史は四十億年ですが、下等な単細胞生物だった頃の私たちの祖先は不老不死で、事故死する以外は、永遠に生き続けることができました。
 ところが、十億年前、大事件が起こります。私たちの祖先は、女と男が出会い、愛を育み、子供をつくるという有性生殖のシステムを誕生させたのです。私たち一人一人の体を個体といいますが、単なる細胞分裂で自分と全く同じDNAを持つ二匹の個体になる無性生殖と違い、有性生殖では、DNAを混ぜ合わせることにより、いろいろな子供が生まれます。このため、環境変化に適応できる子供も生まれ、進化のスピードも飛躍的にアップしました。
 ところが、この「性」の誕生は、私たちに残酷な運命を与えました。分裂して二つの個体になる無性生殖では古い個体は残りませんが、有性生殖では、子供を作った後に、親の個体が残ります。老人は大切にしたいですが、古い個体が無限に生き残ってゆくと、若い個体の生存にも深刻な危機を与えます。また、古くなったDNAはどうしても破損してゆくので、二百歳や千歳の個体が、破損したDNAを混ぜ合わせて子供をつくると、ヒトという生物種に危険が生じます。このため、有性生殖では不老不死が許されず、「死」が誕生しました。 細胞の死はDNAに組み込まれた命令によって行われ、ヒトの体は六十兆の細胞でできていますが、毎日三千億の細胞が自ら命を絶ち、更新されています。
 またDNAは、私たちの細胞の分裂の回数にも制限を設けました。DNAの端のテロメアという部分が、細胞分裂のたびに短くなり、やがて分裂できなくなるのです。ヒトの場合五十回から六十回の分裂が限度で、これを支配するテロメアは「細胞分裂の回数券」、「寿命の回数券」と呼ばれ、私たちに死ななければならない運命を与えました。個体を生かすために細胞は自ら死に、ヒトという生物種を生かすために個体は老化して死ぬ運命にあるのです。ちなみに下等な単細胞生物のDNAは環状でテロメアもなく、無限に細胞分裂できました。
 短くなったテロメアを元に戻せれば不老不死の可能性も出てきます。そして、テロメアを合成して元に戻すテロメラーゼという酵素も実在しますが、残念ながらテロメラーゼは普通の体細胞には存在しません。逆に、ガン細胞はテロメラーゼをもち、無限に細胞分裂して増殖し、私たちの体を蝕みます。テロメラーゼによる不老不死は難しいようですが、テロメラーゼを目印にしてガン細胞を攻撃する治療などの研究は進んでいます。2009年のノーベル医学生理学賞は、テロメアやテロメラーゼを研究したアメリカの三人の教授に贈られました。
 生きるために死ぬ。私たちは、その昔、「愛」と引き換えに「永遠の命」を失いました。誰もが逃れることはできない死。精一杯生きたいものです。

※この文章は、生物Iの授業で有性生殖について話した内容をまとめたものです。
化学教育兵庫サークルに校正、編集していただき、2009年12月に神戸新聞「理科の散歩道」に掲載されました。

Ikimono-Note by E.Yoshida